人間の尊さと尊厳    
 
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
 今年最初の日曜日は
13日でしたが、
 その日教会ではイエス様誕生の
2週目を記念することになっていました。
 
 教会が日曜日の礼拝で用いる本(祈祷書と言いますが)には、
 日曜日ごとに特別に捧げるよう決まった祈り(特祷)と
 その日に読むべき聖書の箇所が記されています。
 
 私たちの教会(日本聖公会)の祈祷書が、「英語共通聖書朗読表」に基づいて、
 朗読箇所を決めておりますので、私は礼拝の準備にアメリカ聖公会の祈祷書のその日の祈りも
 参照することにしています。

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1日の「イエスの命名」の記念の礼拝の後、3日の礼拝の準備を始めましたが、
 アメリカ聖公会の祈祷書が採用しているその日の特祷を見て、
目を見張りました。

 何年も繰り返し目を通してきたはずなのですが、
 これまで特に何も感じなかったのが不思議に思えるほどでした。
 
 それは、直訳しますと、「人間性を尊いものとして見事に創造され、
 それにも増してそれを見事に回復された神よ、人間性を共有するために、
 自らへりくだられたあなたのみ子イエス・キリストの神性を
 私たちが共有できるようにして下さい」という祈りです。

 この祈りには、本来人間性(人間らしさ)は尊いものであったのに、
 その尊さが損なわれてしまったということ、しかし、
 イエス様が人間の創り主でもある神様から損なわれた人間性を回復するために派遣されたということ、
 また、イエス様は謙遜という生き方をお示しになることによって損なわれた人間性を
 回復されたということ、少なくとも三つのことが述べられています。
 
 ここには、言葉で明らかに示されていませんが、尊いはずの人間性が損なわれるのは、
 人間がそのままでは謙遜でいることができないということが暗示されているのではないでしょうか。
 
 人間性が損なわれる、つまり、人間が謙遜でなくなってしまうということは、
 別の言い方をすると人間の目が眩まされやすいということのように思えてなりません。

 人間の目が眩まされやすいということを今も鮮明に思い起こさせる、
 アメリカ人の学者が書いた、一つの論文があります。
 
 それは近代という一つの時代の考え方を説明するためのものですが、
 その論文の筆者は近代という時代の思想の特徴を「還元主義(リダクショニズム)」という言葉で
 表現するのです。
 
 「還元」というのは数学の代入と同じで、あるものを数字や記号に置き換えて表現することを言います。
 
 興味深いのは「還元」を意味する英語は「減らす」という意味でもあるということです。
 
 これが果たして近代だけの特徴なのかどうか分かりませんが、
 人でも物でも数量などに換算することによって、還元された表現が、
 かなりの部分を現実からそぎ落としているという事に気付かないということが起こります。
 
 例えばこのようにして、自分の目が眩まされているという事実に気付いた時に、
 謙遜が現実のものになるのではないでしょうか。

 しかし、このような非常に現代的とも言える事柄を取り扱うこの特祷が
 いつどこで生まれたのか関心をそそられて少し調べてみました。
 
 先に申し上げましたように、
 このお祈りはアメリカ聖公会の祈祷書にあったものですから、そこから出発しました。
 
 この祈祷書の解説によりますと、
 その祈りは
1928年にイギリスの聖公会が祈祷書を初めて大々的に改訂しようとした時に
 採用したものだったのだそうです。
 
 しかも、その祈祷書の改訂案はイギリスの議会で否決されたといういわくつきのものでした。
 ところが、このお祈りは、何と
400年代にまとめられた教皇レオの名前のついた礼拝用書に出て来る、
 非常に古いものだったのだそうです。
 
 5世紀の教会は、信仰の伝統をめぐって深刻な対立を抱えており、
 ついには東方
教会とローマ教会とが分裂するという厳しい環境にあり、
 争いが自分たちの視野狭窄のせいであることを実感した時代だったのでしょう。

 現在私たちを取り巻く世界こそ、
 多くの人々が視野狭窄に陥って謙遜さを失っているように思えてなりません。
 
 全ての人々が謙遜さを回復し、
 自分には見えないことが沢山あることに気付くことができるようご一緒にお祈りしたい
 
  2016年の初めです。