教会に託されたメッセージを語るということ


                                 司祭 サムエル 輿石勇

主イエスご復活のお祝いを申し上げます

月並みなご挨拶を申し上げましたが、そうしながらも一体今から2000年以上も前に起こった
イエス=キリストの復活を今もお祝いするのはなぜなのかと改めて自問しましても、
答えはそう簡単ではないように思えてなりません。
しかし、この問いを解く鍵は、聖餐式の聖別の祈りに出て来る
「わたしを記念するため、このように行いなさい」(祈祷書175頁)というみ言葉にありそうです。
 

聖奠(サクラメント)特に聖餐式について学び始めますと、
記念すること(アナムネーシス)とはイエス=キリストの出来事が今も継続していることだと学びます。

それでは、キリストの何が今も継続しているのでしょうか。
それは、父なる神のみ心を示すために主イエスがこの世界に派遣され、
この世から拒絶され、派遣者のみ許にお帰りになるという過程なのです。
その過程が継続されているということなのだと教会は教えて参りました。


それでは、この主イエスの派遣と復活・昇天・聖霊降臨の過程の継続は
具体的にどのように行われるのでしょうか。

教会はそれが聖餐式に参与することによって行われるのだと教えて参りました。

聖餐式に参与する者は、聖書や教会の諸伝統に記録された信仰者の賛美や祈りを用い、
聖書に耳を傾け、聖餐式に参与する人々と共に懺悔をし、赦罪を受け、捧げ物を捧げ、
主イエスのご生涯を偲び、聖餐に与り、それぞれの持ち場に派遣(ミサ)されます。

ここで重要なことは、聖餐式に集う者は派遣されてそれぞれの持ち場での成果を、
特に懺悔や奉献を通して共有し、また聖別された聖品の陪餐を通して新たにされて、再び派遣されるのです。この過程を、ある人々は世界の再創造の過程として表現しています。


わたしの青年時代に、教区主教であった大久保主教は、
教会にはディアスポラ(離散)とエクレシア(集合)との二つの相があるとしばしばお話しになりました。
ディアスポラは主イエスが派遣されてこの世界で苦難の生涯をおくられたこと、
またエクレシアは主イエスが復活・昇天によって父なる神のところにお戻りになったことに
対応するのではないかと思います。


先日、現在受聖餐者総会の折に、宣教という言葉が何を意味するのか分からないという
指摘がなされました。宣教という言葉の意味に曖昧さはあると思います。

しかし、もしキリスト者の生活が聖餐式を中心とする離散=派遣と集合=奉献の
二つの力動的な過程として捉えられるとすれば、宣教とは何か特別なことではなしに、
この過程を自覚的に生きることとして受け止めることができるのではないでしょうか。
その点で、聖餐式の意義を重要視してきた聖公会の伝統に感謝したいと思います。

ミサ(派遣)によって持ち場に「出て行き」、持ち場での成果を奉献するために
「集う」過程を自覚的に生きることが、つまり、聖餐式に象徴されるこの二つの相を大切に生きること、
が「教会に託されたメッセージを語ること」であり「宣教する」ことなのではないでしょうか。


主イエスのご復活を記念するということは、
分析的に見れば、受難を前提とした主キリストの勝利の帰還に焦点を当てることと思われるのですが、
この受難による勝利への転換は主イエスの父による派遣と切り離し難いことは
改めてもうすまでもありません。

今年もまた、聖餐式とわたしたちの持ち場での働きのいずれをも大切に、
主イエスに従う生活ができますように、祈り努めたいと願います。