川越とわたし 祖父はメソジスト教会の信者でした。叔父が聖公会の女性と結婚して聖公会となりました。 家族の全員がクリスチャンというクリスチャンホームではありませんでしたが、 細々と繋がり、わたしが三代目クリスチャンと言う事になります。 子供が洗礼・堅信を受け四代目にまでようやく繋がっている状態です。 私に洗礼を授けた当時の弘前昇天教会の牧師であった細貝岩夫司祭が 川越基督教会の牧師であった松平惟太郎司祭と友人関係に有ったことから東京の大学進学の際に、 最寄りの教会として川越の教会を紹介してくださったことが私と川越基督教会との出会いでした。 それから東京の神学院に進むまでの四年間、川越基督教会の皆様にお世話になりました。 現在協力司祭として助けていただいている斎藤英樹司祭は神学院に入学した時の同級生です。 本当に不思議なご縁を感じます。 また、赤レンガの川越基督教会に関わることになったのも不思議を感じます。 わたしの故郷の教会も赤レンガの教会なのです。 東日本大震災の時まで東北教区で牧師をしておりましたが大病を患い、 マルコによる福音書の第13章33節に、 「今日一日の苦労は、今日一日で足れり」とも語られます。 キリスト者は、神さま任せの人生を過ごしなさいと言われているような気がします。 中々そうはいかないのが現実ですが。しかし、主の教えに従って生きようと考えなければ、 信仰の芽は決して育たず、成長することが無いのです。 私たちの抱えている現実を見ながら、委ねて行く方法を考えるのがキリスト者の生き方でありましょう。 そのように努めないならば、争いが絶えず、裁き合う日々が続くだけです。 裁きも主に委ねなければならないと言われます。 わたしたちは、よく人を裁きます。また、人から裁かれています。悲しい事です。 カトリックの神父で奥村一郎司祭が著書の中で「井の中の蛙、大海を知らずと言うが、 しかし天に通じ、神に繋がっていく広く、深い世界へと導いてくれるものと理解することが出来ます。 奥村神父は、天上の世界に目を向けると同時に「足元を深く掘れ」とも書きます。 足元を深く掘ると言う事は、「聞く」ことだと思います。五感を澄ませ聞く事でしょう。 学生時代に金子十三松氏のセンター作りの手伝いとしてエスコート役を頼まれたことが有ります。 川越に来たのだから、何か 所信を述べるようにと言われましたが、牧師生活40年余り、 |