教会問答について         
                         (最終章)

  前回の最後に、聖餐式の中で、
  現行祈祷書の感謝聖別の祈り
[](祈祷書173頁)の最初の部分に改めて注目しましょう、と
  一言だけ申し上げました。

  それは、「主イエスの受肉」に関する教会の信仰の要約だからだったのですが、
  時間の制約上説明申し上げませんでした。

  この信仰の要約は、文語の祈祷書にはないもので、調べて見ますと、
  現在の祈祷書への改訂に際して、英国の『併用祈祷書』から取られたことが分かりました。

  さらに、この感謝聖別文は240年頃殉教したと言われる
  ヒッポリュトスという主教の名の付いた聖餐式文に由来することも分かりました。

  こうして見直してみますと、1990年に発行された私たちの祈祷書は、
  教会の信仰伝承の核である、主イエスの受肉信仰を改めて強調するという
  意図が明確だと受け止めることができるのではないでしょうか。

  それは、言い換えますと、教会が主イエスによって派遣されたということを
  強調しようとしているということに他なりません。


  先週の説教の最後に、私は今回、ニケヤ信仰の最後に出て来る教会の自己理解、
  つまり、「使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます」ということや、
  できれば聖職のことについても触れたいと申し上げました。
  これからニケヤ信経のこれらの告白が意味するところについて考えようと思います。


  最初に、結論を先取りして申し上げますと、これらのそれぞれの項目は全て、
  「教会は主イエスによって派遣された」という信仰を表現するものだ、と
  言うことができると思います。

  たとえば、本日の説教の冒頭で触れました、私たちの祈祷書の感謝聖別文の最初の
  信仰告白の部分の最後、つまり特別序唱の直前の部分、はこうなっています。
  祈祷書
137頁をご覧下さい。

  「そして聖霊を送り、わたしたちを神の民としてみ前に立たせ、
  主の祭司として
主とすべての人びとに仕えさせてくださいます」

  「教会は主イエスによって派遣された」という信仰は、
  最初から教会が祭司的職務を託されており、したがって、教会は、
  「主とすべての人びとに仕える」ものであることを示しています。

  この「すべての人びと」とは、
  時間や空間を越えてこの世に生きるすべての人びとを含みますので、
  教会の働きは普遍的なものだということがここに示されていることになります。
  この普遍的なものという教会の性格がカトリックということばの意味するところでありまして、
  私たちの現行の祈祷書では「公会」と表現されております。


   2週間前に、わたしたちはこの教会に関わる逝去者を礼拝の中で記念いたしました。
  この教会に関わった外国人の宣教師の名前を挙げませんでしたが、
  この教会の聖職や信徒の中には、かつて働かれた外国人宣教師の方々がおられました。

  つまり、わたしたちの属するこの教会は、
  時代と国境を越えて派遣された教会、すなわち普遍的な教会であることを示しています。

  今申し上げましたように、日本聖公会にも海外からの宣教師が派遣されて参りましたが、
  世界中の殆ど全ての国に、教派を越えて、キリスト教会が建てられました。


  世界のそれぞれの国は違う文化や違う考え方をしており、
  それぞれの場所で受け入れた福音信仰を違った形で表現いたします。

  また、時代は常に変化しますから、
  聖書や伝統についても違った受け止め方が生ずるのは当然のことです。
  それにも拘わらず、教会は自らを「すべての人に仕える」ために
  キリストによって派遣されたゆえに、一つの普遍的な教会だとする信仰伝承を継承して参りました。

  言い換えれば、一つの普遍的な教会は多様な違いを含むということになりましょう。


  この関連で、「聖なる」ということばに触れておくのが適切なのではないかと思います。
  ヨハネの福音書
17章にある主イエスの祈りが、教会の「聖なる」という性格について
  分かり易く解明してくれますので、ここでその記事を読ませて頂きます。


  「わたしは彼らにみ言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。
  わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです・・・
  わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
  彼らを聖なる者としてください。

  あなたのみ言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、
  わたしも彼らを世に遣わしました。」(
1418節)

   この主イエス祈りの「聖なる者にする」という言葉は、
  「取り分ける」という意味でありまして、今読みました最後の節(
18節)の
  「世に遣わしました」という派遣の言葉につながります。

  こうして、聖なる教会とは、主イエスによって、主イエスと同様に派遣された教会を示す
  別の表現ということになります。


  さて、いよいよ、神に派遣された教会の聖なる、
  つまり「取分けられた」職務について見ることにいたしましょう。


  これまで見て参りましたように、「一つの、聖なる、普遍的で、使徒的な」という、
  教会の性格を示す表現は全て同じことを意味しております。
  しかし、中でも教会が神によって主イエスを通して派遣されたということを直接示す言葉は、
  「使徒的な」という言葉です。


  教会の職務が「使徒的な職務」あるいは単純に「使徒職」と
  表現されて参りましたのはそのせいではないかと思います。


    現在、聖公会も含めて世界の多くの教会が受け入れております使徒職についての理解は、
  「教会が使徒的であるからこそ、主教職に代表される教会の使徒的な職務が生まれ、
  継承されてきた」ということだと思います。

  前にもお話し申し上げましたように、主イエスの十字架の出来事の直後から、
  いろいろな地域でキリスト者の共同体が、定期的に聖書を読み、
  洗礼と聖餐のサクラメントを行い、人びとへの奉仕を通して福音を証しすると共に
  後継者を養成しておりました。


  それぞれのキリスト信徒の群れは、
  主としてその周辺文化に起因する違いがありました。たとえば、
  聖餐式の司式者が象徴的に示す、共同体の代表の職務を、ある地域では監督と、
  また別の地域では長老と違う呼び方をしていました。

  そのために、これらの違いにもかかわらず、それぞれが、
  共に聖霊を受けキリストに派遣された者として一つであることを確認する必要が生じます。

  例えば、パウロが活動していた時代、アンティオキアで、
  異邦人キリスト者もユダヤ教の割礼を受けるべきだと
  ユダヤ人が暴力的に主張するという事件が起こったことを使徒言行録
15章は伝えています。

  その記事によれば、そのために使徒によるエルサレム会議が開かれ、
  「割礼は救いにとって不可欠なものではない」という結論に達したのでした。

  これは、地域の教会の代表が共に集い、教会の使命を再度確認し、
  教会がその使命を果たすことができるようにするという使徒的な職務を示す例だと言えます。

  エルサレム会議は、教会の普遍的な性格の内、空間的な領域で生じたのですが、
  教会の使命の再確認のためには、聖書や伝統を含む教会の歴史的な、
  つまり時間的な、領域における検証作業も行われたのでした。

  このように、教会の使徒的職務は時間と空間との領域において、
  複数の違いを持つキリスト者の共同体と出会うことと表現することができると思います。


  それでは、この使徒的職務とは一体誰によって担われるのでしょうか。

  使徒職に関する聖公会の現在の理解で重要なのは、教会の使徒的な職務は、
  主教によって人格的に、また聖職団全体で共同的に、
  さらに教会の全構成員と共同体的に担われるものだという点です。
  これは一体どういうことなのでしょうか。


  教会の持つ使徒職の内、主教、司祭、執事という違った聖職の役割は、
  ともするとこの世の身分制度を基準として理解されがちです。

  三聖職位を身分制度として理解することが、教会をこの世界に派遣なさった、
  主イエスの教えと相容れないことは明らかです。

  なぜならば、人間は全て神に似せて創られているからに他なりません。

  こうして、長期に及ぶ、また、いろいろな性格を持った、使徒職を聖書と教会の伝統に照らして
  検討する過程を経て、教会の使徒職は、先程お話しいたしました
  エルサレム会議のように、本来、会議的なものであったということが明らかにされたのでした。


  その結果、教区を一つの単位とする各教会は
  自分たちで意志決定するものであることの重要性が強調されるようになりました。

  こうして、教会の使徒職は主教や聖職団とも信徒とも
  共に担うことが強調されるようになったのだということができます。

  今、世界の聖公会で、全ての信徒は主イエスに派遣された教会の担い手であり、
  殊に聖餐式に与ることによって、それぞれが働く場の喜びや悲しみを教会に届け、
  分かち合い、神から与えられた新たな命をそれぞれの場に届けるという
  重要な使命を負っていることが強調されようになりました。

  しかも、聖餐式は、主イエスの制定になるもので、
  教会の設立以来行われて来た歴史的なものでありますので、
  主を信じて世を去った全ての方がたも参与するという、
  歴史的な側面を重視することも、奨励されていると見ることができるのではないでしょうか。 


  教会問答との関係で、触れておかなければならない重要なことがまだ沢山あると思います。
  またこの連続説教の中に誤りもあると思いますが、
  教会問答を中心とした説教をひとまずこれで終わりにさせて頂きたいと存じます。
  お気付きの点、特に誤りだとお感じになった点やご不明な点などございましたら、
  いつでもお申し越し頂ければ幸いです。