教会問答について       

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  本日からしばらくの間、川越キリスト教会の名前で出版いたしました、
  『教会問答』を使いまして、聖餐式の説教をさせて頂くことになりました。
  内容に入ります前に、少し『教会問答』というものがどのようなものか
  ということから、お話させて頂こうと存じます。

  『教会問答』は、日本聖公会ではこれまで長いこと『公会問答』と呼ばれて参りました。
  しかし、現在の祈祷書に改訂されましてから『教会問答』と呼ばれることになりました。
  なぜ『公会問答』が『教会問答』に変えられたのか、私の知る限り、説明はありません。
   
  恐らく『公会』という言葉が全てのキリスト教会という広い意味で使われて来ましたから、
  聖公会のものであることをはっきりさせるために変えたのだろうと私は考えております。
  いずれにいたしましても、どちらの『問答』も「教える」という意味のキャテキズムという
  英語(ギリシア語の
カテーケオーに由来する)の訳語ですから、
  日本語のタイトルの変更によってその意味や役割が変わるわけではありません。
  ですから、私も現行のアメリカ聖公会祈祷書のキャテキズムを『教会問答』と
  翻訳することにした次第です。

   

  次に、教会の歴史の最初から行われてきた、信仰の教えに問答形式が
  用いられるようになった経緯について申し上げておくことにいたします。
  英国がローマ・カトリック教会の支配から独立しましたのは1533年でした。
  それ以降英国教会としての歴史が始まりますが、その直後から
  問答形式によるキャテキズムが用いられるようになりました。
  この時代にドイツでは、マルチン・ルターが書いた『教理問答』や、
  カトリック教会の『公教要理』に比べれば短いものでした。
  それは、英国教会が1549年に出した『第一祈祷書』に
  教会で行われる主な礼拝の式文以外にキャテキズムをも収めたことと
  関係があるかもしれません。こうして、祈祷書ができて以来『教会問答』は、
  信徒の学びの教材の、少なくとも、モデルとしての役目を担うことになったと
  言うことができると思います。


  さて、祈祷書は聖公会に固有な伝統ですので、ここで、
  祈祷書が聖公会の信仰の生活の中で担っている特別な役割について、
  少しだけ触れさせて頂きたいと思います。
  聖書と祈祷書の違いは、聖書の本文が古代の教会会議等で決定されていて、
  事実上、それを誰も変更することはできないのに対して、
  祈祷書は教会が作ったものなので、必要に応じて変えることができると
  いうところにあります。

  以前お話申し上げたことがあったと思いますが、私たちの世代が生きてきた時代は、
  いろいろな学問の分野で研究がすごい早さで進んだ時代でした。
  当然のことながら、聖書や歴史の分野もその例外ではありませんでした。
  このような研究の成果を取り入れて聖書を読み直すことや教会の歴史を見直すことは、
  私たちの信仰生活を豊かにし、今私たちが何をしなければならないかを明らかにする上で
  大きな助けになるに違いありません。
  このような、聖書の読み直しや歴史の見直しの成果を信仰生活に反映させる一つの手段が
  「教会問答」を含めた祈祷書の改訂に他なりません。


  さて、前置きはこのくらいにして、早速、中身に入ろうと思います。
  私たちが用います『教会問答』を含むアメリカ聖公会の現行祈祷書は、
  1979年に正式なものとして承認されました。
  それからもう
34年も経っておりますし、私の翻訳も適切でないところも
  多々ありますので、少し、厳しい目で吟味しながらお話をさせて頂こうと思います。

  教会問答の「人間とは何か」と題された第一章と
  「父なる神」と題された第二章を中心として、この説教のシリーズを始めたいと思います。
  この二つの章では、主に、神が創造者であること、
  人間は神の姿に似せて創造されていることが述べられています。

  今から40年程前のことです。
  私がまだ神学校の学生の時、旧約聖書の最初の書である創世記の最初に出て来る
  「天地創造」の記事について全く新しい解釈が行われ始めていることを、
  カナダ聖公会の宣教師であった、旧約聖書の先生から紹介されました。

  それまでキリスト教会では、天地創造とは
  「何もないところから何かを現すこと」だと考えられていたと言うことができます。
  しかし、先生が紹介して下さった新しい天地創造物語の研究によれば、
  初めに「混沌があった」ことが語られているということでした。
  次いでこの物語は神が先ず光を創造することによって、時間的なリズムを、
  次いで「淵」と表現される深い水を分けることによって空間的な秩序を与え、
  こうして、天と地を整えられたと、語ります。その創造の秩序を管理するために、
  最後に神はご自分に似せて、人間を創造されたとその物語は続きます。
  これは、『教会問答』の問答9に述べられている通りです。

  先生が紹介して下さったこの新しい解釈から、
  人間が持つ神の似姿とは神の創造者の働きに与ることだという理解が生じます。
  これは、『教会問答』の問答
2にある「人間が神の姿に似せて創られているということは、
  被造物とも神とも調和して生きるために<愛する自由><創造する自由>
  <判断する自由>を与えられている」という説明と重なります。
  つまり、人間は神に似せて創られているのだから、「人間は全て神の似姿を持つものとして
  尊ばれなければならない」(『教会問答』
10)のは当然だということになります。


  しかし、私がいささかこだわりを感じますのは、『教会問答』3にあるように、
  「人間は自分に与えられた自由を間違って使い、
  良くないことを選んで来た」かどうかということです。
  結果的に、人間は「神に逆らい、自分を神の位置に置いて来た」かも知れません。
  しかし、それは、人間が神の形に似せて創られたとは言え、
  神ではなく神に創られた者である人間の限界のせいなのではないか、と
  私はこの頃考えるようになりました。
  
  私たちの自由には限界があることを誰かに指摘してもらい、それを乗り越える方法を
  教えて貰わない限り、私たちは自分をどうにもできないのではないかと思えて仕方がないのです。
  『教会問答』
5が言うように、「こういう私たちが救い出されることはできないのでしょうか」と
  私も大声を上げて聞きたいところです。


  教会はこの問いに対して、伝統的に、神がご自分の意志をお示しになることによって、
  人間の自由、あるいは人間の力、の限界を指摘し続けられたと答えて参りました。
  『問答』
6は言います。「神は自然を通して、ご自分の意志をお示しになりました。」

  この夏、降雨量が一時的にせよ非常に少ないかと思えば、
  集中豪雨によって多くの場所が大きな被害を受けました。
  改めて申すまでもなく、降雨量を人間がコントロールできないことを人間は知っています。
  しかし、自然の力の前に無力であることを知りながら、
  人間は自分の限界をどこまで真剣に受け止めようとしているでしょうか。

  さらに『問答』6は言います。「神は歴史を通して、ご自分のご意志をお示しになりました。」

  アメリカ合衆国がイラクに戦争をしかけ、それをイギリスが支持して
  戦争が起こったのはそんなに昔のことではありませんでした。
  しかし、アメリカ合衆国で自国民から虐げられた筈の現在の合衆国の大統領が
  他国の内政の問題で、他国に戦争をしかけるよう世界に向かって呼びかけています。

  人間は自分の力をはるかに超える自然の呼びかけにも、
  自分の敵や味方の違いを越えて、先祖たちによる過去の無意味な流血から
  何かを学ぼうとしてきたのでしょうか。

  無意味な流血の経験から、あるいは自然の猛威から学ぶことができたのは、
  自分の家族を、流血によって殺され、自然の猛威の被害者として
  失わざるを得なかった人びとだったのではないでしょうか。
  強い立場、支配的な立場に立つ者は、全体として、人間が不自由であるという
  現実を受け止めることはできないのではないでしょうか。

  では、このような無力な人間が、その無力な現実から脱出することはできるのでしょうか。
  この続きはまた来週のこの時間にお話申し上げさせて頂くことにいたします