教会問答について         
                             (4)           


  本日は『教会問答』第六項の「子なる神」に移る心づもりをしておりました。
  しかし、毎週のように申し上げておりますが、この『教会問答』は、
  余りにも先を急ぎますために重要事項を積み残しにしてしまいます。
  そこで今日は、先週触れましたメシアと関連させながら、
 「救い」ということについてお話申し上げさせて頂くことにいたします。


  これまで私は『教会問答』に従いまして、「救い」とは、
  神がその民を神の敵の支配から解放することだとお話して参りました。
  イスラエルの先祖は、神の敵の支配からの解放、すなわちエジプトからの脱出と
  カナンへの定住という出来事を通して体験いたしました。
  その救いの出来事は同時に神ヤハウェとその民イスラエルの出会いでもありました。

  イスラエルはその出会いを、定められた祭を通して記念することにしたのでした。
  それはヤハウェの救いの業を思い起こし、ヤハウェのように、
  自分たちも虐げられている者に共感することを新たに決意することに他なりませんでした。

  しかし、ある時、イスラエルの民は、
 「王こそが自国民を抑圧することになる」というサムエルの警告にも拘わらず、
  王制度を導入することを決断しました。
  やがて、サムエルの警告通り同胞である王の圧政に喘いだ挙句、
  イスラエルは大帝国バビロニアによって滅亡させられました。

  捕囚の地で、ある人びとは深い挫折感と悔恨の中で、自分たちの来し方を振り返りつつ、
  ヤハウェとその民の敵はただ外国人だけでなく、同胞も、
  場合によっては自分自身をも含んでいることを思い知らされることになりました。
  その結果、ヤハウェとその民の敵に立ち向かう道は、モーセの時代以来、
  先祖のエジプト脱出とカナン定住に示されたヤハウェのみ心を自分たちの心として
  生きることだと気付かされたのでした。

    こうしてイスラエルは、油注がれた者、メシアを信頼に足ると信じていたことの
  誤りに気付きました。
  それと同じように、自分たちがモーセの時代から伝えられたヤハウェとの出会いの時を
  守ることによって、ヤハウェに従って生きることができると思い込んでいたことに気付き、
  それも誤りであることを自覚いたしました。
  

  神と民との出会いの時とは、神と人との意志疎通のために民が神に犠牲を捧げ、
  神と民が共に食事する、定められた祭に他なりません(イザヤ
3320などを参照)。
  イスラエルに伝えられた神との出会いの時、つまり犠牲の祭は、神の自己紹介で始まるのだそうです。
  

  神の自己紹介とは、当然、
 「私はあなたがたの先祖をエジプトから導き出したヤハウェである」という定形化されたものでした。
  それはごく自然な流れとして、
 「だから、あなたがたは私以外のものを神としてはならない」と続きます。


   しかし、このような儀礼や祭儀が習慣化し形式化するのにそう時間はかかりません。
  こうして、祭儀が制度化されるに従って、それぞれの祭儀が持っていた固有の意義が薄められ、
  スケジュール化されることになったと思われます。
  旧約聖書の預言者アモスは、このようにスケジュール化した祭儀を批判した代表の一人であり、
  ヤハウェがアモスを通して語られた次の言葉は良く知られています。

     わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。
     祭の献げ物の香りも喜ばない。
     正義を洪水のように
     恵みの業を大河のように
     尽きることなく流れさせよ。(アモス21

   ヤハウェがイスラエルの献げ物を受け入れないということは、
  ヤハウェとイスラエルの関係が断絶しているということです。
  ヤハウェはイスラエルが自分にどのような献げ物をしようとも、
  義が行われない限り献げ物を受け入れないというのです。
  

  このような神と人との断絶は、
  ヤハウェがイスラエルを敵の手から救出する働きから手を引くということに繋がります。
  こうして、イスラエルは自分たちの解放のために、人の手によって塗油された王の力も、
  犠牲の祭儀によるヤハウェとの出会いにも頼る道が閉ざされる結果となりました。
  まさにイスラエルは八方塞がりに陥ました。この八方塞がりの闇の中で、
  イスラエルの少数者は、救いを求める声をヤハウェが聴きたもうことを信じ、
  叫び続ける以外になすすべを見出すことができませんでした。
  

  先ほど読まれました本日の旧約聖書ハバクク書1章もそうですが、
  特に詩編
130編には、こうしたイスラエルの少数者の心の底からの叫びが残されています。

       主よ、深い淵からあなたに叫び、
     嘆き祈
るわたしの声を聴いてください。
     わたしは主を待ち望む、わたしの魂は待ち
     臨む わたしはみ言葉に寄り頼む
     イスラエルよ、主に寄り頼め 
     主は贖いに
満ち 慈しみ深い

  さて、ここから『教会問答』第六項の「子なる神」という主題がようやく始まります。

  ナザレのイエスが降誕する前のイスラエルは、エジプトで、
  あるいは捕囚とされたバビロニアで、イスラエルの先祖が神に向かって
  助けを求めざるを得ないのと同じ状況にあったと言うことができます。
  しかし、イスラエルのほんの僅かな人びとに過ぎませんでしたが、
  神から派遣されるメシアと、神がお受け入れになる献げ物とが与えられる日を
  待ち望んでいた、敬虔派と呼ばれる、人びとがおりました。

  そのような長い待望の後、
  ナザレのマリヤという女性を介して、神によって男児が生まれたのだ、と福音書は語ります。
  ここからは皆様良くご存じの通り、イエス(ヘブライ語で「救い」という意味)と名づけられた
  その赤ちゃんは、神に忠実に生きようとしていたイスラエルの人びとの中で育てられました。

 「子なる神」と題がつけられている『教会問答』第六項にありますように、
  成人したイエスはそのお働きの中で、祈りと教えと癒しをイスラエルにもたらしました。
  しかし、イスラエルの指導者たちは、ナザレのイエスが自分たちの優越的な地位を脅かすので、
 「反逆罪」という冤罪により十字架につけて殺害してしまいました。

  これをイスラエルに伝承された言葉で言えば、次のようになります。

   神はご自分に忠実なイスラエルの民の声を聴き、ナザレのイエスという、疵のない、
  すなわち、神にふさわしい献げ物を人間にお与えになりました。
  ナザレのイエスは十字架に象徴される「自己放棄」の生き方を貫き、
  十字架にかかることを通して「祭司」として自分を神に捧げたのでした。
  

  神は、欠けるところのない祭司によって捧げられた、ご自身が用意された汚れない献げ物を
  お受け入れになりました。
  こうして断絶していた神とイスラエルとの関係が回復され、
  神に忠実に生きようとする全ての人との関係が新たに開始されたのでした。
  それは、主イエスの甦りでもあり、それが神とその民との関係の甦りをもたらしたのでした。

  こうして、私たち、ナザレのイエスを通して神の救出を体験した者は、
  イスラエルの民がエジプト脱出とカナン定住に示された神のみ心を
  自らの生き方とすることを誓約したように、ナザレのイエスのみわざを通して示された
  神のみ心を自分たちの生き方とすることを誓約したのでした。
  それが、「新しい契約」と題された『教会問答』第七項が意味することに他ならないのですが、
  今日はここで終わることにいたしましょう。