教会問答について     
                              (5)
  
 ナザレのイエスの働きが、イスラエルに残された、数少ない敬虔な者たちと
 呼ばれる人びとの救いを求める声に対する、神からの答であったこと前回お話いたしました。
 

 十字架に象徴される主イエスの生き方は、断絶していた神と人びととの
 関係の回復をもたらしました。それと同時に、それは、
 イスラエルの枠を超えて主イエスに従おうとする多くの人びと、
 すなわち“教会”を形成して、主イエスの十字架と復活の出来事を証言するために
 世界の隅々にまで派遣する出来事でもありました。
 

 それは、救いの出来事に与った人びとの中から、救いをもたらした方に従う者として
 新しいイスラエルが生れたということに他なりません。 

 私たちの『教会問答』は、第6項の「子なる神」、
 つまり、主イエス
の出来事から第7項の「新しい契約」に話題を転換させています。
 それは、主イエスの出来事とそれによって生じた主イエスに従う人びととの関係が、
 法律用語で言えば「新しい契約」と表現されるようになったということです。
 
 

 その「新しい契約」という法的な表現に従えば、
 私たちが守るべき事項は、主イエスがお生きになった姿勢、
 またその教えやみ業に従って生きることができるよう祈り努めることだと言うことができます。
 
 

 他方、その契約によって神様が守るべき事項は、
 神様がお望みどおりに私たちをお用いになるという約束を実現なさると
 いうことになるのではないでしょうか。

 主イエスの出来事によって使徒たちが召され、
 使徒たちの働きによって主イエスを知らなかったイスラエル人や、
 更にイスラエルを越えた地中海世界の多くの人びとが主イエスを証しする働きに召されました。
 
 私たちと同様に、直接主イエスを目撃したことのない者が
 主イエスに従う者として召されるのは、もちろん伝道者の働きの結果でありましょう。

 しかし、それ以上に、主イエスが使徒たちに約束されたように、
 彼らに聖霊の働きかけがあったからこそ、主イエスに従う人の群れが拡大したことを
 教会が強調していることに注目したいと思います。
 

 それは、ヨハネ伝
16章にありますように、
 聖霊の働きを抜きに、教会は主イエスに託された使命を果たすことができないことを、
 最初のキリスト者たちはすでに十分知っていたと思われるからです。


 このような文脈の中で、私たちの『教会問答』が
 第
9項の「聖霊」や第11項の「教会」について触れてくれると、
 もう少し分かりやすくなるのではないでしょうか。
 それはともかく、ここでは、
67番で述べられておりますように、
 「聖霊が教会に住み、その民を聖別し、神のわざを行うように導く」ということが、
 教会の重要な信仰箇条の一つであることを、確認しておきたいと思います。


 私はこの度、説教の時間に『教会問答』を用いてお話させて頂きまして、
 いろいろと新しい発見をする機会に恵まれております。
 
 特に今回、私は、自分がこれまで聖霊をめぐる教えについて、
 教会の歴史の中で大論争の主題となった「三位一体」をめぐる議論の単なる一部として
 形式的に受け止めがちであったことを反省させられております。
 

 つまり、聖霊をめぐる教えは、「教会が何であるか」を理解するうえで
 非常に重要であることに改めて気付かされているということです。
 これから、教会が聖霊についてどのように教えているかということを、
 暫くご一緒に考えて見たいと存じます。


 「霊」という言葉は、旧約聖書の中では、「風」「息」などを意味するもので、
 捉えどころはないのですが、
 確実に「人に働きかけて、普通ではできないようなことをさせる力」のことを指したようです。
 

 旧約聖書の士師記には、救いを求める民の声に応えて、
 神に選ばれた人の上に「主の霊」が下り、イスラエルを窮状から救ったという話が、
 沢山出てきます(例えば、士師
310など)。
 

 また、初期の預言者の活動は「霊」の力によるとする記事があるのも当然です
(例えば、サムエルT
106など)。また、預言者イザヤが
 メシアを「主の霊」と結び付けていることは有名です(イザヤ
11章)。

 たった今申し上げましたメシアの預言に代表されるメシアの待望が、
 主イエスの誕生の直前のイスラエルに満ちていたことは前にも申し上げた通りです。
 主イエスに従った人びとはメシアを待望していた人びとであったと言うことができると思います。
 

 そのような人びとが、「主の霊」は主イエスの職務の開始を画するものとして、
 先ず主イエスに降ったと証しするのは当然のことでありました。
 一番古い福音書と言われる、マルコ伝
19節以下には次のように記されています。

 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のようにご自分に下って来るのを、ご覧になった。」


 この記事は、主イエスのお働きが、
 洗礼に際して「霊が降る」ことによって、開始されたことを宣言するものだと考えられます。
 
 しかし、マルコ伝福音書の段階では、主イエスに従う群れが
 まだ形成過程であったせいでしょうか、
 教会と結び付いた、主イエスによる使徒たちの派遣については言及がありません。


 マタイ伝2816節には、「すべての民を主イエスの弟子とする」ために
 使徒たちを派遣する物語がありますが、
 ここでも使徒たちは派遣に際して聖霊を受けたとは書いてありません。

 ヨハネ伝2019節にある復活物語の一部は、マタイとマルコの福音書とは違い、
 復活された主イエスによる弟子たちの派遣がはっきりと語られています。
 このヨハネ伝福音書の記事は、主イエスの復活と聖霊の授与を伴う弟子の派遣とが
 同時に述べられる福音書の唯一の記事だということができます。

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。
 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』
 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
 

 『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」


 このヨハネ伝の記事では、先ず、復活の主イエスが弟子たちを派遣することが
 はっきりと語られています。
 第二に、主イエスは弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を注ぎます。
 第三に、聖霊の授与は罪の赦しと結びついています。
 ここには、教会とは何かをめぐる一つの重要な理解が示されていることに留意しておきたいと思います。

 ルカによる福音書2436節以下では、
 エルサレムに集っていた
11人の弟子たちに現れた復活の主は
「メシアの死と復活、罪の赦しを得させる悔い改めをあらゆる国の人びとに
 宣べ伝える」任務を託して弟子たちを派遣するので、
 五旬節をエルサレムで迎えるよう指示されたことになっています。
 

 この記事には、「主イエスによる派遣」「メシアの死と復活、
 罪の赦しを得させる悔い改めの宣べ伝え」
「五旬節における聖霊の受領」と、少し形は違うものの、
 ヨハネ伝と共通の三要素が認められることを確認しておきたいと思います。

 この復活の主の指示の記事の続きである、使徒言行録2章の聖霊降臨につながる記事によりますと、
 使徒たちが集まっていた別の時に、復活の主が使徒たちに聖霊によって
 洗礼を授けられることを予告して、天に上げられたことを記しています。


 次いで、過越しの祭から50日目である、五旬節の日の出来事の記事が続きます。
 使徒言行録の説明によれば、主イエスの十字架と復活が起こったその
50日後に
 弟子たちは、聖霊を受けるという形で洗礼を受け、主イエスの使徒として派遣されたというのです。


 使徒言行録第21節以下は次のように語ります。

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。

 この記事が示しますように、主イエスが約束された聖霊を受けたので、
 使徒たちは他国の言葉で「メシアの死と復活、罪の赦しを得させる悔い改め」を宣べ伝え、
 主イエスに従う人の群れが拡大したのだと、福音記者ルカは語るのです。
 

 聖霊を受けなければ、使徒たちも「メシアの十字架と復活、
 罪の赦しを得させる悔い改め」を宣べ伝えることはできない、ということが
 繰り返し述べられていることを深く心にとどめたいと思う次第です。